命は救えても、皮膚は守れなかった――
「退院できて本当にうれしい。でも、なんで背中にこんな深い傷が…?」
集中治療室(ICU)で人工呼吸器をつけ、数日、あるいは数週間をベッドで過ごしたあと、患者の体に残っていたのは”褥瘡(じょくそう)”と呼ばれる皮膚の損傷。
英語では「pressure injury」とも呼ばれ、長時間の圧迫によって血流が滞り、皮膚やその下の組織が壊死してしまう状態です。
実はこの褥瘡、ICU において決して珍しいものではありません。
命を救うための治療の影で、静かに進行してしまう”もうひとつの危機”なのです。
特に、人工呼吸器を装着している患者は、自力で動いたり痛みを訴えたりすることが難しく、気づかぬうちに皮膚の損傷が始まってしまうのです。
「この患者に、何が起きそうか」をAIが教えてくれる
そんな見えにくいリスクに光を当てるため、中国のがん専門病院と大学病院の研究チームが取り組んだのが、AI(人工知能)を用いた褥瘡予測モデルの開発です。
29,448 人の人工呼吸器を装着した ICU 患者のデータを使い、彼らが目指したのは「誰に褥瘡ができやすいのか」を事前に予測し、医療現場が一歩先を読んで対策を講じられるようにすることでした。
このモデルには「XGBoost」という精度の高い機械学習手法が使われ、さらに「SHAP(シャープ)」という解釈可能なAIツールが組み合わされています。
SHAP の最大の特徴は、AIの判断に”理由”をつけてくれる点。
たとえば、ある患者について「なぜこの人は褥瘡のリスクが高いのか?」という問いに対し、データに基づいた納得感のある説明をしてくれるのです。
データから見えた、褥瘡を引き起こす”10の影”
AIモデルによって浮かび上がったのは、褥瘡発症に強く関係する10の因子でした。
もっとも影響が大きかったのは「敗血症」。
全身に炎症が広がり、微小な血管の流れが悪くなるこの状態は、皮膚の栄養不足や酸素不足を引き起こし、褥瘡のリスクを高めます。
年齢が高くなるほど皮膚の弾力や厚みは失われ、血流も弱くなりがち。これもリスクを増幅させる要因です。
さらに、ICU での滞在期間が長ければ長いほど、動けない時間が増え、圧迫による損傷が起こりやすくなります。
そして、血液中の酸素を測る「PaO₂/FiO₂比」や、栄養状態を示す「アルブミン濃度」、酸素運搬能力を示す「ヘモグロビン」なども重要な指標となりました。
入院の種類(緊急かどうか)、腎疾患の有無、血小板の数、人種といった要素も、統計的に見て褥瘡の発生に関係していることがわかりました。
一見関連がなさそうに思える人種という指標も、医療へのアクセスやケアの質といった社会的要因を反映している可能性があります。
「なぜその人に起こるのか」を知ることの意味
AIがただ「この人はハイリスクです」と言うだけでは、医療現場にとっては使いづらいものです。
しかし、SHAP 分析が加わることで「この患者は高齢で、酸素化の指標が悪く、アルブミン値が低いためにリスクが高い」といった個別の説明が可能になります。
これは、現場で働く医師や看護師にとって非常に実用的な情報です。
たとえば「この人には栄養面のケアが必要だ」「酸素供給を見直そう」といった具体的な対応をとることができます。
つまり、経験や勘に頼っていた褥瘡予防に、科学的な”地図”が加わるのです。
全員に最高のケアはできない。でも”本当に必要な人”にはできる
現実には、ICU で働くスタッフには限りがあり、すべての患者に高性能マットレスや頻回な体位変換を行うことは難しいのが実情です。
だからこそ「誰に、どんな優先順位で、どのケアを施すか」を判断するためのツールが求められています。
このAIモデルはまさにそのための羅針盤になります。
リソースを最適に配分し、最もケアが必要な人に、必要なタイミングで適切な支援を届ける。
その一歩先を読む医療の在り方を、AIは静かに支えてくれるのです。
「気づいたときにはもう遅い」をなくすために
もちろん、このモデルにはまだ改良の余地もあります。
たとえば、実際の患者の動きや、看護師が毎日行う観察記録などはまだ十分に含まれていません。
さらに、異なる病院での外部検証も今後の課題です。
しかし、それでも今回の研究は大きな希望を示してくれました。
見えにくいリスクに光を当て、誰かが傷つく前に先回りして手を差し伸べる。
その”思いやり”を、AIが後押しできるということが証明されたのです。
このモデルはトレーニングセットで AUC 値 0.797、検証セットで 0.739 という高い精度を示しました。
また、29,448 人の患者のうち約 7% にあたる 2,052 人が褥瘡を発症し、その大部分(約80%)が軽度の第1段階でした。
やさしさと科学が出会うとき、ICU の風景は変わる
皮膚に生まれた小さな傷。
それは、治療の影で生まれたものかもしれません。
でもその傷が、患者の回復の希望に影を落とすものであってはなりません。
AIが導き出す予測と、人の手によるあたたかなケア。
その両方が揃ったとき、ICU のベッドサイドには、よりやさしく、より確かな医療の風景が広がっていくはずです。
命を守るだけでなく、その人らしく生きる未来まで守る。
それが、AIと人が手を取り合う次世代の医療なのです。
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